近所の図書館に行ってきた
子どものころ、2週間にいちど日曜日の午後に図書館に、自転車で母とともに行く習慣があった。子どもたちのために、というよりも、母は自分のために図書館に行っていたのではないかと思われる。母は自分の本を選び、その間我々兄弟は児童書コーナーに放牧されていた。たぶん習慣としては記憶にある限り前(幼稚園に入る前?)から、小学校高学年くらいまで続いた。その後も図書館は身近な存在で、例えば大学のゼミの発表のために、新編日本古典文学全集を借りた。子どものころの話に戻ると、この他に1週間にいちど、近所の「地域・家庭文庫」といわれる場所で本を借りていた。図書館が2週間で5冊*1、文庫が1週間で3冊。これを返す日までに全部読んでしまうと、しかたがないので今度は弟が借りてきた本を読む。小学校に入ってからはたいていゾロリである。だいたい、1日か2日で1冊のペースで読んでいた。
小学校の国語のテストは漢字の書き取りの割合が大きいのでそうでもなかったが*2、中学・高校でこの読書のストックは現代文の成績に直結した。他の教科と違って問題の答えが書いてあるのに、なぜ他の人がこんなに間違うのかがよくわからなかった。とはいえ文学で食っていける職業はそんなに多くないので、教師を目指すことになる*3。この図書館通いが大学を決定したともいえよう。
生まれ育った杉並区は、23区の中でも図書館の蔵書数がもっとも多いそうだ。さらに、最寄りだった中央図書館はその中でももっとも多くの蔵書を抱え、812,000冊、らしい。だから、たいていのものは置いてあったし、新編日本古典文学全集も開架で置いてあった。
児童書のコーナーも相当広く、子どものころはよく迷子になって泣いていた。「アトピーがひどくなるから」と男の子のようなショートカットヘアーで、「弟も着られるように」と男の子ものの服ばかり着せられて、迷子で泣いていると、図書館の職員さんから、「ぼく? お名前は?」と聞かれて、(ぼくじゃなーい!)と余計にわんわん泣いていた。
最近はもっぱらスマホでkindleで本を読む。昔は本屋で働いていたくせに、紙の本を買ってしまうと管理がめんどくさいので、電子書籍のほうがいい。でも、子どもが生まれたら絵本を読んであげたいし、それは電子書籍というわけにもいかないし、買ってそろえるとお金もかかるし場所もとる。やっぱり図書館がいちばんだ。
近所の図書館に行ってきた。蔵書数112,000冊。やっぱり、見劣りがする。児童書は案外たくさんあるなとおもったが、大人の文学の棚があまりに小さい。リクエスト前提で使うと割り切ったほうがいいかもしれない。それでも図書館は本屋は異なるラインナップで、なかなか楽しい。
今日は近所の図書館に行ってきた。なかなか刺激的な本を発見! pic.twitter.com/Qx573XpyxJ
— はこどり (@hakodori) January 28, 2019
貸出上限はなんと2週間で20冊! 20冊借りたら、1日1冊読んでも足らない! あと、ものすごく重いでしょ!
久々に図書館に行って、読めるかどうか心配だったので軽めのものを5冊借りてきた。
なんとなく宮部みゆきの「ブレイブ・ストーリー」を再読したいなと思ったのだが、なぜか上下巻の「上」だけあって「下」が他館にしかない。続きが読みたくなったら困るので、3冊以内の続き物は全巻一緒に借りるというマイルールがあって、断念。
これが読めたら、また借りに行こう。近所の図書館は家から徒歩圏内にある。自転車に乗らなくても良いのだ。妊娠する前は、休みのたびにどこかへ出かけていたが、妊娠してから体力的にきつい。そういうときは家でのんびり読書をするのもいい。
久々に論文を書いた。
タイトルの通り。
学生じゃなくなって、初めて論文を書いた。
査読なし論文。母校の雑誌に入稿した。
楽しかったー。
『源氏物語』の歌ことばは、物語の中で全部つながっている、という仮説をもっている。
「琴の琴(きんのこと)」は皇族の血を引く人の楽器、とか、「きよらなり」は限られた人物にしか使われていない、とか、とにかく言葉を繊細に使い分ける『源氏物語』であるから、すごくありそうなことだ。
それを、自分なりに全部説明するには、自分で一つひとつ用例を見ていくしかない。
卒論か修論でやればよかったなあ。
気が遠くなりそうだけど、のんびりやろう。
いつか本にまとめられるように。
いつか博士課程に進んで博論にできるように。
妊娠判明から2ヶ月。今14週。
ちゃんと古典文学のお勉強をやろうと思っていたのですがね。
このブログを作ったときには、月1回くらい更新してやろうとおもったのですがね。
挫折したよね。
また歩き出せればいいやの気持ちで、のんびりいきましょう。
妊婦になりまして、心身ともに健康だけどだるい状態が続いております。
つわりというやつです。
昨日また妊婦検診受けてきまして、いたって普通、異常なし、とのことでした。
おまえは元気かもしれないけど、こっちはだるいんだよ!
と、またしても謎のイライラを抱えて帰ってきました。
まあ、つわりなめていたよね。
子どものころからアトピーがあるのと、前の会社で過労でダウンしたほかは、
大きな病気も、大きなけがもしたことがなく、入院もしたことがなく、
私、わりと健康優良児なんですよ。
「つわりでつらいのは不健康な人だろう」
という謎の思い込みがあったけど、
そんなことはなかった!
だるい、眠い、頭痛、だるい、眠い、胃痛、だるい、眠い、空腹、だるい、眠い……
猛烈にだるくて眠いのです。
あと、おなかがすいて気持ち悪い。
もっとひどいつわりを経験されている方もいらっしゃると思うんですけど、
これはこれでなかなか。
あと、仕事がいやになる病にもかかっています。
仕事中になんどか気持ち悪くなって早退したんですよね。
今までできていた仕事ができなくなって、だるいし眠いし、ミスはするし、迷惑はかけるし、
モチベーションは急降下。
もう少し仕事を愛していたはずなんだけどなあ。
職場の方々は優しいのですがね、仕事にならない感はすごくある。
有給使いながら、産休までがまん……。
救いなのは、私が起き上がれないときに、
旦那が掃除と洗濯と食べ物の買い出しをしてくれたこと。
ありがたや、ありがたや……。
若草・初草/『源氏物語』つながる歌ことば
はじめに
『源氏物語』の和歌で詠まれる「若草」「初草」について調べてみた。和歌では「若草」が4例、「初草」は2例である。特に「若草」には『伊勢物語』引用と、『源氏物語』自体の引用を見たい。
若紫巻
『源氏物語』の中で、もっとも有名な場面が、光源氏(18歳)が若紫(10歳)を垣間見(のぞき見)した場面だろう。この時代の物語にもロリコンはいたのだ。教科書にも載るこの場面、若紫の「雀の子を犬君が逃がしつる」(若紫①206)*1というセリフで覚えている方もいらっしゃるかもしれない。
その場面で、光源氏が垣間見していると、若紫の祖母である尼君と女房が若紫の身を案じて歌を詠みかわす。
A(尼君)生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき
B(女房)初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えんとすらむ
(若紫①208)
【A歌はこどり訳】将来も決まらない若草(=若紫)を残して、露のように死ぬわけにもいかない。
【D歌はこどり訳】初草(=若紫)の将来も分からないうちにどうして露のように死のうとするのですか。
ここで気になるのは「若草」「初草」の組み合わせである。ここでは『伊勢物語』四十九段の引用が指摘されている。兄である昔男(在原業平)から妹に歌が贈られ、妹が返歌を詠む。
四十九 若草
むかし、男、妹のいとをかしげなりけるを見をりて、
c(昔男)うら若みねよげに見ゆる若草を人のむすばむことをしぞ思ふ
と聞えけり。返し、
d(妹)初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな
(『伊勢物語』155)
【c歌試訳】若々しいので寝たくなる若草(=妹)が他人と結婚することを悔しく思います。
【b歌試訳】初草のようになんと斬新なお言葉でしょう。(兄弟だから)うっかり安心していましたのに。
この妹が結婚の許されない同母妹であるのか、結婚可能な異母妹であるのかは、はっきりしない。ただ、妹が他人と結婚することになったことを惜しく思うと詠む。それに返したd歌は、昔男が詠んだc歌を「初草」に喩え、兄弟だからうっかり安心していたという。
A歌はc歌と「若草」しか一致しておらず、B歌で「初草」を詠んだことによって『伊勢物語』四十九段の引用となる。また、A歌・B歌では兄弟間の恋愛の要素はない。
つまり、この贈答が『伊勢物語』四十九段と一致するのは
・贈歌で「若草」、答歌で「初草」が詠まれる。
・「若草」が結婚前の女性の喩
ということぐらいしかないのだ、この時点では。
先走るが、光源氏が若紫を二条院(光源氏の家)に連れてきたあと、末摘花巻には次のように語られている。
(光源氏)「平中がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」と戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。(末摘花①306)
光源氏と若紫、同じ二条院にいながら、まだ夫婦ではない男女が「妹背」=兄弟のようだというのである。このあたりまで読むと、『伊勢物語』四十九段の兄弟間の恋愛の要素も合わせて引用しているようである。
以下、若紫巻の和歌の「若草」「初草」の例を見ていこう。後に、光源氏が尼君に若紫を求めて詠んだ歌でも、「初草」が出てくる。「初草」は『源氏物語』中でB歌とこのE歌しかない。
E(光源氏) 初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ
(若紫①216)
【E歌はこどり訳】初草の若葉のように美しい方(=若紫)を見てから旅の宿りの衣の袖が涙に濡れて全く乾きません。
ここでは「初草の若葉のうへ」が若紫のこと。B歌の「初草」、A歌B歌に共通する「つゆ」を用いて、「初草の若葉のうへを見つるより」と若紫を見たと詠む。垣間見していたと言っているようなものである。
次は光源氏の歌で「若草」=若紫が詠まれている。
F(光源氏)手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草
(若紫①239)
【F歌はこどり訳】手に入れて早く逢いたいものだ。紫草(=藤壺)の根につながった野辺の若草(=若紫)を。
藤壺は光源氏の父桐壺帝の女御(妻)で、光源氏からすれば義母であり、不倫関係にある。若紫は藤壺の姪にあたる。光源氏は、憧れの藤壺は自分の手に入らないが、血縁のある若紫を手に入れようとするのである。やはり「若草」は若紫をさす。引歌*2を用いながら、「紫のねにかよひける」と藤壺と若紫の血縁を詠みこむ。
『源氏物語』の和歌で「若草」が詠まれる歌は全部で4例あり、いずれも、この『伊勢物語』四十九段を引いている。昔男と妹が実の兄弟だということを前提としながら、『源氏物語』の中の曖昧な人間関係を照らし出していくのである。
また、そのうち2例は若紫巻で、若紫のことをさす。このあと、紅葉賀巻で、光源氏が若紫を二条院に連れてきたことについて、
かの若草尋ねとりたまひてしを(紅葉賀①316)
と語られるように、「若草」は若紫の代名詞である*3。これ以降『源氏物語』で出てくる「若草」は、この若紫の物語を思い出させるきっかけとなる。
胡蝶巻
さて、若紫巻から時は流れて、胡蝶巻。光源氏36歳。昔の彼女である故・夕顔と、光源氏のライバルで、昔頭中将と呼ばれた内大臣の娘である玉鬘は22歳。彼女は六条院(光源氏の大屋敷)に引き取られて、光源氏の庇護下にある。
光源氏は養女玉鬘に恋情を訴え、玉鬘のどん引きをくらう。その次の日、玉鬘のもとに光源氏から手紙が届く。
(光源氏)「たぐひなかりし御気色こそ。つらきしも忘れがたう。いかに人見たてまつりけむ。
G うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほるらむ
幼くこそものしたまひけれ」と、さすがに親がりたる御言葉も、いと憎しとみたまひて、
(胡蝶③190~191)
【はこどり訳】
「とんでもなく不機嫌だったね。残念だったけど忘れられなくて。女房たちはどう思ったろうね。
G 気を許し合って寝たわけでもないのに、若草(=玉鬘)は何かあったように悩んでいるのだろう。
うぶだね。」と、それでも親ぶっている言葉を、(玉鬘は)本当にきもいと思って、
光源氏もおっさんになったなぁ、と思ってしまうこの場面。先述の『伊勢物語』四十九段の歌を踏まえて詠まれた歌である。「若草」は玉鬘のこと。
養父のようであり、求婚者のようでもある光源氏。『伊勢物語』四十九段のc歌は兄から妹へ、恋愛の圏外から贈られたものだった。若紫巻のC歌は親心(祖母心)あふれる歌だった。対して、光源氏と玉鬘は親子のようではあるのだけれども、兄弟でも親子でもない。その意味で求婚者になりうる存在である。揺れる関係性が引歌によって表されている。
総角巻
時はさらに流れ、光源氏の死後。光源氏の孫、匂宮は紅葉狩りを言い訳に宇治の中の君とデートをしようと宇治に行ったのだが、中の君には逢えず、母明石中宮にばれて宮中軟禁状態になってしまう。宮中から出ることができないので、同じ宮中にいる同母姉の女一の宮に歌を詠みかける。
H(匂宮)若草のねみむものとは思はねどむすぼほれたる心地こそすれ
(総角⑤304~305)
【H歌はこどり訳】若草(=女一の宮)と寝ようとは思わないけれども、悩ましい気持ちがします。
これもまた、先述の『伊勢物語』四十九段の歌を踏まえて詠まれた歌である。c歌の「うら若みねよげに見ゆる若草」の表現を借りて、「若草の」が「ね」を導く序となっている。また、「人のむすばむ」を受けて「むすぼほれたる心地」と詠んでいる。
H歌の少し後に、
紫の上の、とりわきてこの二ところをばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく思ひかはしきこえたまへり。(総角⑤305)
と語られる。生前の紫の上が女一の宮と匂宮を特にかわいがっており、2人が兄弟の中でもとくに親しい、という。「若草」といえば紫の上である。答え合わせのようだ。
『伊勢物語』四十九段を引くことで、若紫巻の垣間見を思い起こさせる。匂宮は在原業平と重ねられ、光源氏とも重なってくる。だが、匂宮は軟禁状態であり、昔男のように出歩くことはできない。光源氏が若紫を二条院に連れてきたようには(今のところ)宇治の中の君を迎えることもできない。そもそも、「筋ことに思ひきこえたまへる」(総角⑥303)と、帝が匂宮を次期東宮にとほのめかしていた。臣籍降下され、「源氏」となった光源氏と匂宮は立場が異なるのである。
おわりに
『源氏物語』の和歌の「若草」は、どれも『伊勢物語』四十九段を引用している。それだけでなく、若紫巻より後の和歌の「若草」は、若紫の物語を思い出させ、比べながら読みたくなる。
『伊勢物語』では兄弟なのに恋の歌を詠む在原業平が描かれていた。若紫巻では光源氏と若紫は兄弟でないのに「若草」「初草」の歌が詠まれる。胡蝶巻では、親がる光源氏が恋情を詠むときに「若草」が詠まれる。総角巻では『伊勢物語』と同じように、匂宮は兄弟なのに恋の歌を詠む。「若草」が詠まれるとき、ただの兄弟、ただの親子ではなく、ただの恋人でもない、そんな人間関係が照らし返されるのだ。
『源氏物語』専用の歌ことば辞典があればいいのに。
ゴミのような修論を書いてしまった後悔は、修了(退院)してから5年以上たった今なおある。学生時代よりヒマな今、もっとましなものを書いてみたい、という気がしている。某Mゼミの某仙人先生から「卒論では何を書くんですか?」と聞かれていなかったら、何をテーマに選んでいたか。パラレルワールドの卒論・修論のテーマは『源氏物語』の和歌についてである。
『源氏物語』専用の歌ことば辞典があればいいのに。
という思いは依然からあった。某Gゼミでは、担当段の和歌を読み解くために三代集の用例を見ていく。しかし、三代集の類型に当てはまらない『源氏物語』独特の表現があるようだ。しかも、『源氏物語』は物語である。直前の場面の和歌はもちろん、はるか前の場面の和歌をも思い起こさせる和歌が、再び現れる。何度も何度も繰り返し使われる表現もある。後から語られる和歌から、以前の和歌を読み解けることもありそうだ。
そういった、物語の中で繰り返され、積み重ねられた和歌の表現をひとつひとつ分析したい。同じ語を『源氏物語』の和歌から拾い上げていくと、光源氏の若いころ→玉鬘十帖→御法・幻→宇治十帖と詠みぶりが変わっていく(と思う)。
前の和歌が後の和歌の読みを変えることも、後の和歌が前の和歌の読みを変えることもあるだろう(と思う)。
手順は、次の通り。
①「源氏物語作中和歌一覧」(新全集『源氏物語』⑥)を見て、気になる語をピックアップ。
②「源氏物語和歌一覧」(『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』)でざっくり用例数を調べる。
③おもしろくなさそうな語をカット。気がついたことをメモ。
④とりあえず、項目が多い植物から調べる。
⑤目次の順番は中身を書いてから決めたい。
⑥論文は後からきっと調べる???
と、いうわけで、ブログを書くことにした。アウトプットしないと、書き続けられないと思うので。
レベル設定の目安は、母校の大学1年生にわかるように。どの場面かわかるように、ざっくりとあらすじを入れ、ざっくりと現代語訳を付した。『源氏物語』およびその他の物語引用は『新編日本古典文学全集』(小学館)、三代集は『新日本古典文学大系』(岩波書店)による。
いろいろ詰めが甘いのは、論文じゃないから許してね(逃げ)。